文学を研究すること

 文学を研究することがどのくらい文学と関係があったり、どのくらい文学的な行為と呼べるのか、ということは難しい問題で、おそらく色々な答え方がありえるだろうけど、どのように答えようとも完璧に答えることはできない。はじめて会った人に「何を研究なさっているんですか?」と聞かれれば、もちろん「文学を研究してます」と答えるけど、続けて「文学研究ってどんなことをするんですか?」と問われたりすると、うっと、つまらざるをえなくって、それは相手の問いがあまりにナイーブだからではなく、こちらの側に答えるだけの準備がないからだ。というのも、「文学研究」は「文学研究ってどんなことするんですか?」という問いを内に含んでいるのあって、つまり、世界/現実と表象の関係について常に自問し続けるような営為だし、また逆に言うと、そのような自問を放棄してしまったような職業的な研究(者)は、いかにすぐれた物(人)であっても、読むものに切実な印象を与えない。
 だから、そのような問いに答えること自体が文学研究的な営為の一つであって、答え方は無限数のヴァリエーションに開かれていて、事実、いま自分が過去においてそのような問いにどう答えてきたかを思い出してみると、まったく覚えていない。たいてい一言二言言うと、相手がもっと細かい内容について質問をしてくれるので、これに乗じて、最初の問いを不完全なままにおいて、より答えやすい質問のほうに応対することに集中する。そして、そのような細かい問いに対する答えの集積が相手に何事かを伝えることを願うしかない。
 ところで、「文学研究ってどんなことをするんですか」という問いの別バージョンが「文学研究って何の役に立つんですか?」であって、まあ、文学研究を生業とする人間は多かれ少なかれ出会った事のある質問だろうけど、これまた「いい質問」であって、質問者の意図はともあれその射程は非常に遠くまで及んでいるので、たとえばサルトルの「飢えた子供の前で文学は必要か」という問いと響きあっている。僕の友達の中でこのような「失礼なこと」を「部外者に言われると腹が立つ」という人間がいるのだが、これはお門違いであって、腹を立ててはいけない。むしろ、このような質問をしてくれる「他者」に感謝すべきであって、たとえばこのような「他者」を自己の一部としていないようなマルキシストなど信頼おけないのだ。ついでに言えば、「文学など遊びに過ぎない」と思っているような「世間」に腹を立てるような大学院生もいるのだけど、これもまた腹を立てるのは間違っていて、というのも文学が遊びでなかったためしはないのだし、「遊び」が「真面目」と対立する概念であるなどという小学生的な発想で文学研究をやる人間がいるのなら、そういう人はあまり向いていないと思う。まあ、もうくどいので繰り返さないけど、「文学するなんて真面目だね」という紋切り型もあるのだが、、、vice versa。ともかく、こうした大学院生がいる限り、浅田彰の「ノリつつ遊ぶ」ポストモダン精神は啓蒙的であり続ける。

 話を戻そう。実は世の中には文学研究の重要性を分かってくれるような層が確実に存在する。するんだけど、だいたいこの人たちの理解が誤解と紙一重であって、文学研究は人間精神の真髄を極めることだったり、完璧な美の追求だったりすることになっているので、たぶんこういう人たちは、バークレーのエライ先生がレズの人たちがセックスに使う擬似ペニスについて論じていたり、ニューヨークの先生がポルノビデオ研究のプロジェクトを立ち上げたりしているのを知ったら、心穏やかでないだろうし、少しは文学研究の野蛮さに愛想をつかすだろう。しかしもともと文学研究がなんらかの野蛮さを内に含んでいないわけはないのだから、研究費をもらいたいときに人は決まって角を矯めて、紋切り型の文章を書き並べ、世間様に顔向けできるように化粧するのであって、これが出来ることが職業的な文学人の証なのだ。
 もちろん僕は文学研究が人間精神の真髄を極めることだったり、完璧な美の追求だったりすることを否定しない。大いにそのとおりでもある。が、しかし、このように答えるという行為が表現してしまうコノテーションに無自覚であることの批判性の無さというのが問題で、なかなかこのようなことを人は学習しないものだ。表現というのは歴史的に意味を積み上げていくものなので、それらが常に「自分の伝えたいこと」を直接に表したりはしない。だから問題は歴史性の欠如であって、こういうことは学問としての「歴史」を学べば片がつくわけではないというのは、知り合いの歴史家の話が恐ろしいほど紋切り型で塗り固められていることからも分かる。

 だから言葉は裏切る。多分、これは文学をやっていると一つ学ぶことだろう。「文学研究ってなんですか」という問いに対して、うっとつまるというのは、そのこと自体文学的体験である。