若書きについて

最近、自分が4年位前に書いたペーパーを読み返して、ああ若いなあと思った。若書きというのは、論文の組み立て方の甘さとか、妙にレトリックに頼っている感じとか、とにかく思考の過程が透けて見えるような文章に対して距離感を取った言い方だけど、この「ああ若いな」という印象はいったいいくつぐらいになったらなくなるのだろうか。この「若書き」という感想をあまり持たずに生きていける人もいるのかもしれない。妙に老成した論文を書く学部生というのはいるのものだ。それはそれで才能だと思う。しかし「若書き」によってしかアプローチできない主題というのも確実にあるような気がする。僕の卒論も若さのもたらすような壮大な思い込みがなければ成立しえなかった類のものだ。それが成功しているかどうかは別として、今であればあれだけの大風呂敷を広げることは出来ない。だから、25くらいの時になっていずれは自分の中の「若さ」が失われるであろう事に気づいて、あえて20代でしか書けないような主題を選んで書いた。今ならまだ同じ主題で書けると思う。でも5年後はどうだろう。ああ若かったなあ、と思ってしまうのではないか。

いかに自分の若い文体と折れ合えばいいのか、ということを考える時点で若さは峠を越えているのかもしれない。自分の思考が世界と直接触れ合える契機を含んでいるという幻想のみによって書くことが動機付けられうるのが、真の「若書き」のあり方なのだから。しかしまた、自分の中で「若さ」の持つ突拍子のなさのようなものは死ぬまでなくならない生の要素のようにも感じる。別の言い方で言えば、ラディカルな揺らぎのようなものが自己の中で自己を規定しようとする力と拮抗するか、あるいはdisplaceする。この冬に大江のコギト三部作を読んで、その生の揺らぎ具合の強度に感動したものだ。まあ、これは大江自身がサイードを参照しながら、老成とは違う形での後期の作品のあり方について述べているのだけど、僕からすれば、大江はサイードよりもさらに強く揺らいでいるような気がするのだ。転覆的な言説は必ずしも言説の主体を転覆しない。

ところで、ブログというのは「若書き」の別名ではないか?