アカデミズムと翻訳

 人文学のアカデミックな研究書の翻訳というのは日本では毎月のように出版されているんだけど、本当にこれほど英語で書かれた研究書が翻訳される必要ってあるのかなあ、とよく思う。特に、英米文学の分野で。というのも、一般の読書好きまで読むような稀代の名作ならともかく、専門的な書物というのは専門家以外はほとんど読まない。そして、英米文学の専門家なら英語で読めないとおかしいわけで、いったいどこに需要があるのだろうか。結局、英語が苦手な研究者や大学院生がさらに英語が苦手になるのを助長しているだけのような気がしてならない。アマゾンその他で注文すれば、日本国内にいても大体の書物は手に入るのだから。もちろん、たとえばサイード、ジェイムソン級の批評家の書物は翻訳されてもいいと思う。日本文学をやっているような人でも読むべきだから。でも、各作家についての研究書を訳したりするのはあまり生産的でないような気がする。

 あるいは、英語圏の学者のスター制度に日本のアカデミズムは軽く乗りやすいのかもしれない。たとえば、Zizekは素晴らしい学者だと思うけど、全てが翻訳されるべき人だとは全然思えない。Sublime Object of Ideologyが訳されれば、On Beliefなどその変奏にすぎないんだから、訳されなくてもいいと思う。

 大江健三郎が、仏文に進学したときに神泉駅の古書屋にフランス語の翻訳本を売りに行く話がどこかの短編に出てくるけど、あれは重要な気概だと思う。僕も大学院に入ってから翻訳書を買ったことがなかったわけではないけれど、何か特殊な事情がないかぎりは買わないようにしていた。というか、それはすごく恥ずかしいことのように思えた。せっかく原書が読めるのに翻訳で読んだらもったいない。というより、そんなの研究者でも何でもない。一般読者にも翻訳文学好きというのはいて、年間100冊以上読むような人も少なくない。もし、外国文学系の大学院生が翻訳なんか読んでいたら、それはただの読書好きに過ぎない。そんな楽な人生ってありだろうか?

うわー、なんか今日は辛辣でした。反省。常に寛容な人間でありたいと思っているのに。