表象のディスクールなど
「何も手につかなくなって」と書いたけど、夕方くらいから俄然読書欲が沸いて次々読破。
- 作者: 蓮實重彦
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
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- 作者: 大江健三郎
- 出版社/メーカー: 講談社
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- 作者: 小林康夫,松浦寿輝
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表象のディスクール ① 表象
序論 松浦寿輝「表象と確率」
表象文化論のマニフェスト的な論文。作品のダイナミズムは、その創作過程における一瞬ごとの確率的な賭けによって常に揺れているところに存しているので、作品に確固たる意味とか一貫性を求めるのは滑稽で、たとえば登場人物の性格なるものは積分的な結果によるものに過ぎない。ようするにベルクソン=アウグスティヌス的な時間の持続的な性質を無視して学者になるなかれ。賛成。
高橋哲哉「エウリュウディケーの声」
Hirsch & SpitzerのGendered Translationsという『ショアー』の男性中心主義にユダヤ的家父長制を見出す論文を高く評価する。Hirsh&Spitzerは、ショアーでは、女性は「死」に、男性は「生」に対応することが、男性の中心化、女性の周縁化だとしていて高橋はこれに反対。しかし、ここで展開される高橋の論は弱い。いわく、不在のものこそ映画の本当の主題であるから「死」に比せられる女性こそが中心的ではないか。しかし、この女性と死の結びつき自体に隠微な家父長制が読まれているのではなかったか?だとすれば、この比喩の体制からこそ身を引き離すべきだろう。あと、結論部の「幽霊」の比喩の頻出は端的にデリダの影響を感じさせる。ランズマンがスレブニクのことを「生還者ではなく幽霊と呼ぶべきだ」と言ったのは、単に実在する証言者をなめているとしか思えない。だいたいランズマンが家父長的であってそれがあの映画のトーンに一役買っているのは、彼と通訳の明らかな上下関係からも明白だ。
東浩紀「想像界と動物的通路」
デリダの『精神について』におけるハイデガー批判の紹介からはじまる。ハイデガーが『存在と時間』において却下した「人間」の位相が、同時期の講義『形而上学の根本諸概念』のなかの「動物」という概念の内に現れているというのがデリダの指摘。ここにデリダの形式性の不徹底さが見られ、それが彼のナチへのコミットと通じている。
しかし、このように批判の枠組みを示しながら、それを転覆してしまうのが面白いところ。
「しかし私たちは他方で、「動物」を位置づける際に現れたこの理論的動揺を。『存在と時間』が提出したプログラム、つまりある種の形式化そのものに宿る本質的欠陥を示すものだと受け取ることも出来るだろう」(63)。ハイデガーにおいては、ものをもの「として」了解する能力の有無が人間と動物を隔てている。
シニフィアンによる対象関係(象徴界)とイメージによる対象関係(想像界)を短絡させてしまう「エクリチュール」と呼ばれる一種の通路
田中純「ギリシア幻想の身体」
フロイト 1936年 ギリシア旅行の経験を手紙に書いている。
ゲーテなどドイツ人がギリシア幻想を強く持ちながらも、その地を訪れることに不安を持っていたこと。>「古代人を模倣すること」
ヴィンケルマン『模倣論』 ギリシアに「完全な身体」というファンタスムを見出す。
ベンヤミン <私>は私自身に似ることは出来ない。
Marianne Hirsch & Leo Spitzer "We Would not Have Come without You" Generations of Nostalgia.
http://www.columbia.edu/~mh2349/papers/we%20would%20not%20have%20come%20without%20you.pdf
Czernowitz問題