再びアメリカへ

一時帰国中にアレルギーに苦しんで、とうとう副鼻腔炎に。
こっちに来たらまずは、ごちそうを食べ過ぎて増やしたweightを減らすためにも
運動をしようと思っていたんだけど、薬漬けではなかなかその元気もでない。

日本の慌しい日々も面白いことは面白かったけど、帰ってきてやっぱりアメリカもいいなあ、と思った。
空気がおいしいし、自分のペースで動ける。日本の満員電車や、時間ごとのスケジュールは神経をすり減らしてしまう。

勉強もほとんどできなかったけど、、、

「赤」の誘惑―フィクション論序説

「赤」の誘惑―フィクション論序説

大学の生協で数ページ読んで、即買い。人がフィクションについて語るときにフィクションが舞い込んでくる瞬間について、批評家の「赤」への無意識的な言及を、これまたフィクショナルな主題として提示した本。だから、この本をよんで「へー、みんな「赤」について言及しているんだ、なんでだろう」と言ってはいけなくて、参照するという行為の中立性は常にフィクショナルなものへの無意識的な欲望によって制限されてしまうということを確認すべし。その点ではデリダ的な書物と言えなくはない。しかしジュネットへの高い評価など、いい意味でハスミ先生的なナラティブ研究の擁護の姿勢が現れていて、ある種の優雅さを与えているのは確か。

しっかし、日本のアマゾンの書評というのはなんでいつもこんなに低レベルなの?amazon.comの批評の意識の高さと比べると、とんでもない落差だ。

それと、空港で

夢を与える

夢を与える

を買って、飛行機の中で読んだ。評判は悪いのは知っていたけど、正直言ってこれほど稚拙だとは。各ページに直してしまいたい箇所があった。全体的にメディア社会における主体の脆弱さを一人のチャイドルの成長を通して描いた、自然主義的な結構を持った作品で、それはそれでいいんだけど、男女間の恋愛が育まれていく様子が非常に不自然、というか書けていない。特に主人公の夕子が身を滅ぼす原因となる、ダンサーとの恋があまりにも唐突で、説得力がない。むしろ、「多摩」という3枚目の人物の方が「蹴りたい背中」のオタクの人物像に似てコミカルな魅力があって面白く、これを主人公の川や海への愛着ともっと深くより合わせるべきだったのではないか。
 お父さんがフランスの出身だという設定も活かされていず、夕子が父とフランスに行ったときに当然何か事件が起きてしかるべきはずなのに、ただの家族旅行のようにして日本に帰ってきてしまうのがいかにも弱い。後半における、彼と「日本語の先生」である女との関係もよく分からないし、夕子が母と連れ立って、二人の住まうマンションを訪問した時の書かれ方もダメ。主人公が、大人たちに遠慮してトイレに引きこもるのはいいけど、そのあとであっさりと事情が明らかになってしまっては、「人物間における情報量の落差」という小説の持っている強い武器が使えない。
 文体も翻訳小説と村上春樹のあからさまな影響が読んでいて恥ずかしいのだが、作者は相当無意識にやってしまっている。「楽しい時を持った」などというのは、悪しき翻訳文体の引き写しに過ぎない。

うわ、悪口ばかりになってしまった。もうやめよう。

さて、今年の夏は何といってもフランス語を強化しなければいけない。
それと、教授との約束である、論文の投稿。