ソーセキ

三四郎三四郎池のほとりに立つ場面

「非常に静かである。電車の音もしない。赤門(あかもん)の前を通るはずの電車は、大学の抗議で小石川(こいしかわ)を回ることになったと国にいる時分新聞で見たことがある。三四郎は池のはたにしゃがみながら、ふとこの事件を思い出した。電車さえ通さないという大学はよほど社会と離れている。
 たまたまその中にはいってみると、穴倉の下で半年余りも光線の圧力の試験をしている野々宮君のような人もいる。野々宮君はすこぶる質素な服装(なり)をして、外で会えば電燈会社の技手くらいな格である。それで穴倉の底を根拠地として欣然(きんぜん)とたゆまずに研究を専念にやっているから偉い。しかし望遠鏡の中の度盛りがいくら動いたって現実世界と交渉のないのは明らかである。野々宮君は生涯(しょうがい)現実世界と接触する気がないのかもしれない。要するにこの静かな空気を呼吸するから、おのずからああいう気分にもなれるのだろう。自分もいっそのこと気を散らさずに、生きた世の中と関係のない生涯を送ってみようかしらん。
 三四郎がじっとして池の面(おもて)を見つめていると、大きな木が、幾本となく水の底に映って、そのまた底に青い空が見える。三四郎はこの時電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠くかつはるかな心持ちがした。しかししばらくすると、その心持ちのうちに薄雲のような寂しさがいちめんに広がってきた。そうして、野々宮君の穴倉にはいって、たった一人ですわっているかと思われるほどな寂寞(せきばく)を覚えた。熊本の高等学校にいる時分もこれより静かな竜田山(たつたやま)に上ったり、月見草ばかりはえている運動場に寝たりして、まったく世の中を忘れた気になったことは幾度となくある、けれどもこの孤独の感じは今はじめて起こった。
 活動の激しい東京を見たためだろうか。あるいは――三四郎はこの時赤くなった。汽車で乗り合わした女の事を思い出したからである。――現実世界はどうも自分に必要らしい。けれども現実世界はあぶなくて近寄れない気がする。三四郎は早く下宿に帰って母に手紙を書いてやろうと思った。」
青空文庫より)



文章といい構成といい、本当に素晴らしい。やっぱり別格。「電車・汽車」というのが、この作品の隠れたテーマだけど、こういうところで上品に反復されている。最後にふっと女のことを思い出し、母に手紙を書きたくところなど、名人芸としか言いようが無い。しかも、この直後にミネコさんにはじめて会うのだ。