太った人が好き

今日夕方5時ころか。やあ、一週間終わってうれしいなと思いながら、家までチャリを走らせていたのだけど、途中、太った人とすれ違った。もちろんアメリカでは太った人とすれ違わずに生きていくことは不可能なのだけど、今日はたまたまそのことがきっかけとなって、太った人全般について、あるいは太るという経験について少し思考をめぐらせたのだけど、ものの10メートルも行かないうちに、自分は


太った人が好きである


なあ、と思った。考えてみれば、小学校に入学した時から現在に至るまで、クラスで一番太っているようなひととは割といい関係を築きやすくて、これは男女同断である。幸福なことに、自分の周りにいた太った人はみんな温厚な人で、性格的に尊敬できる人が多かった。今でも後悔しているのは、小学校一年生の時になかよくなった「太った人」はとても力があったので、僕がよく相撲とか、腕相撲とか、それならまだいいけど、レスリングごっことかプロレスごっこだとかにつきあわせてしまった事で、今考えれば、彼の側から誘ってきたことは全然なかったので、おそらく彼はあんな野蛮な遊びはしたくなかったのだ。僕は小学校のときは相対的に力持ちだったので、けっこう痛い思いをさせてしまったかもしれない。次に、中学生の時から今に至るまで仲のいい人は、驚嘆すべき落ち着きと徳を持った人なのだけど、僕は彼から「議論する」という楽しみを大分教えてもらった気がする。それから、アメリカに来てからもドイツ語のクラスで太った人と仲良くなって、彼といっしょに期末のオーラル試験で、ブロークンジャーマンを話したし、自分が教えている学生にも女の学生でとても太っている人がいるのだけど、外国語好きでとても気が合う。アメリカの教室では、イスにちょこっと小さい机のついたものが多いんだけど、そういうのに座っているのは大変だろうなあ、と気の毒になるし、体が弱いので心配だ。

ま、ともかく、偶然の成り行きとは思えぬほど、僕の周りには徳の高い「太った人」が多かったので、彼らのおかげで僕の人生はだいぶ豊かになったし、だんだん僕の中でいい印象が積み重なったんだけど、このあいだ日本に帰ったときに「メタボ」とかいう差別用語差別用語だとも認識されずに使われていることを知って、胸が痛んだ。どうも、「メタボ」というのは状態を指すと共に、人間を指すことが多いようで、それじゃ、黒人を「ニガー」とか呼ぶのと変わりがない。「でぶ」と呼ぶよりも「メタボ」と呼ぶ方が罪悪感が軽いとしたらそれは由々しき問題だ。アメリカでも太っていることに対する抑圧はあるし、ダイエットもあるんだけど、ま、アメリカ料理なんてカロリーの固まりだし、ハーディーズのモンスターバーガーなんて一個で2000キロカロリーもあるんだから、太っている人はとても多くて、あからさまに差別されていることはない。へそもちゃんと出して人生を謳歌している。だから、日本に一時帰国したときに、太った人に対する差別や太ることへの恐怖があまりに強いので、逆カルチャーギャップがあって、僕の友人たちは「メタボ」とか言われても笑っているだろうけど辛いだろうなあ、と思わざるを得なかった。特に女子高生とかで太っていると、馬鹿にされたり遊びに誘ってもらえなかったり本当に辛いんじゃないだろうか。別に何にも悪いことじゃないのに。


だから、いままでも何となく太った人を応援していたけど、これからは何となくじゃなくて積極的に応援することにした。僕の中で、これはフェミニズムよりも重要な課題である。Fattismとでも呼ぼう。

ちなみに、僕は哲学科の大学院生というのも全体的に応援している。でも、理由はちょっと違うので、これについては項を改めよう。

トリュフォーヒッチコックとの対談で、子供のときからあなたのように豊かに太りたいと思っていたと告白している。トリュフォーのこういうところ、とても好きだ。