あけまして もー、最初からまとまらない雑文で申し訳ないのですが

あけましておめでとうございます。

ここのところ、ますます現代思想に自分が傾倒していっているので、そろそろアメリカ文学という看板を下ろさなくちゃいけないかもしれないと思いかけていたところで、年末、4日にわたる学会を聞きに行き、およそテキストの丹念な読みを20分間披露するというタイプの発表にめぐりあうことなかったので、自分が時代の雰囲気に従属しているのか、とちょっと思ったのだった。暴力をめぐって、レヴィナスデリダアレント、をダダダ、と斜め読みに読んだら、お正月の夢は自分の祖父と挌闘している夢で、ま、フロイトを持ち出すまでもなく、いつもながら自分の夢は単純なので、要するに祖父に対する不孝の罪悪感の発露、なのだ。初読書は、ベッドにて、アドルノの美術館という暴力装置についての論考、例の、プルーストヴァレリーの比較もの。

村冶さんがますますうまくなって世界的なレベルに達しているので、敬意をこめて以下のリンクを。
http://www.youtube.com/watch?v=INV_Lukrbak&feature=related
ディアンス、クレジャンスというのは20歳ころの僕にとって、強力な磁場を形成していた二つの固有名詞で、この世界で何人弾けるか分からないサウダージ3番を目の前で弾いた30台中番のオッサンが、僕を完膚なきまでに啓蒙してくれたおかげで、年越しのなんとか歌合戦参加強制型テレビイベントほど気のめいるものはなくなった。

ディアンスの別の曲はちょうど留学前に取り掛かっていたので、たしか、こちらに持ってきたと思ったけど、ディアンスを弾くには技術だけではなく、リズム感も完全に足りない、などと思っているうち、アメリカの過酷なカダイ課題の山のなかで、ギターの弦もさび付き、こちらの腕もさび付き、いまだ完全に楽器をやめてしまう決心はつかないのだけど、まえの実力を取り戻すまでにどれだけスケール練習をしなきゃいけないかを考えると気がめいり、ギターから遠のき、

が、しかし、英語の文章力は確実に上がり、今、二年前の留学したばかりのころに書いた文章を読むと、自分がどれほどうぬぼれやさんだったかが分かりうんざりする。日本語の文章は、ご覧のように捻じ曲がってしまったかもしれないが、このあいだ、修士課程のころに書いた文章を読んで、これまた、その気どった感じに、うわー嫌なやつと、一人突っ込み、

しかし、今でも自分が気どることがあるのは意識していて、こういう自意識は自意識が欠けているとか過剰であるとか言うけど、どちらだかよく分からなくなってしまうなあ。自意識じゃなくて自慰的なのか。

今年は、あまり書かずにとにかく読みに読むことで、PHD課程最大のイベントであるところの試験をなんとか突破したい。あとは、何となくふらふらとしてきた自分の位置をもう少しは、ちゃんと定めたい。フランス文学をいったいどこまでやるのかとかは多分この春学期にかなり自覚されると思う。あとは精神分析批評を結構使うくせにちゃんとラカンを分かっていないとか、そういう問題をなんとかして、もう一つの課題である20世紀前半の生の哲学から現象学にもちゃんと向かい合いたし。今年は理論とフランス文学の年になると思う。