美術作品とナルシシズム

オランジェリー美術館に収蔵されているとある絵画についてインターネットで調べていたら、日本人が絵画の前に立ちながらピースサインをしている画像に出くわして、胸が気持ち悪くなった。そもそも美術館でバシャバシャ写真を撮ること自体が非常識なのに(それでもヨーロッパの多くの美術館はそれを公に許容しているけど)、歴史的な絵画の前に(そう、前なのだ、横ですらなく。その人の身体は絵画の学の内側の空間へと侵入していた)自らの身体を置くとは。結局、この人にとってオランジェリーとはディズニーランドと大差のない観光の対象でしかないのだ。だいたい、高画質でとられた画集という物が世の中には存在するのだし、オンラインでもだいぶ見れるのだから、写真を撮ること自体がナルシスティックなものでしかない。いわんや、絵画と旅行者のピース。しかし、美術館に行くとは今日このような無遠慮な一団を見に行くことに相違ないのかもしれない。僕の場合、もうかなり前の事になるけど、ヨーロッパの美術館を巡ったときは大学の休みの二月で、観光客はあまりいなかった。忘れられないのはハーグのマウリッツハイス美術館で、この瀟洒な建物ののなかにはほんの2,3人の人しかいなかったように記憶している。そのおかげで、フェルメール、ハンス、レンブラントをまったくの静寂−戸外の雨の音が聞こえるくらいの静寂ーで鑑賞することが出来た。21歳の時のこと。21歳で集中してフェルメールの絵画の前にこころゆくまで立ち続けることができたというのは、僕の人生のなかでも数少ない貴重な体験として思い返されることの一つとなるだろう。「青いターバンの女」や、同じ部屋の反対側の壁にかけられた「デルフト風景」の前には小一時間ほども立っていたが、そのあいだに、他の人のために場所を譲らなければならなかったのは、たった2,3回だけだった。これは驚くべきことだ。現在の自分はどれほど多くのことをこの研ぎ澄まされた時間のなかで沸き起こった、さまざまな、名づけがたい感興に負っていることだろう。もちろん、それもまたナルシシズムの問題なのだ。それは分かっている。