日本のほうへ

この週末は日本文学のほうに舵をきる。
梶井基次郎の「檸檬」。久しぶりに読んだけど、こんなに短かったっけ。
すばらしいです。無駄な文がひとつもなく、檸檬丸善の美術本売り場に置くという一点に向かってすべてが
収斂していく。病のもたらす透徹した眼力。
美術本が重くて、書棚から一度出したら戻すことが出来ないというあたりの描写が、なんともすばらしい。

あと、
stephen dodd "Darkness Transformed:Illness in the Work of Kajii Motojiro" The Journal of Japanese Studies. 2007.

梶井における病の機能。おもしろい。アメリカにおける日本文学研究も新しいフェイズに入っている感じがする。
三好達治ボードレールの翻訳『パリの憂鬱』が、佐藤春夫の『田園の憂鬱』と響きあっていて、それが、梶井の詩学に影を落としている。「憂鬱」と病と日本のモダニズムを、同時代のプロレタリア文学の勃興と共に論じている。


日本人によるハイドンの演奏。
http://www.youtube.com/watch?v=1JaCGF6yBlg&feature=channel

決然と理性的な演奏を選び取っている。その勇気がすばらしい。普通はもうちょっと美しく見せようとかして、甘えが出てしまうものだ。それと、同じコンペティションのもの

http://www.youtube.com/watch?v=Y32F4cTRry4&feature=channel

「音の絵」。ラフマニノフのピアノソロでは、一番好きなシリーズ。これで、ラフマニノフの幅の広さを思い知らされた。
日本のピアノコンクールは高校生のときからNHKのラジオで聞いたりしていたけど、奇跡的な高水準をキープしていると思う。それでも、世界的なプレイヤーというのはなかなか出てこないのだ。信じられないほど厳しい世界だと思う。その一方で、特に女性はきれいだったりするとCDがよく売れたりすることがあって、あまり容姿に恵まれなかった演奏家はたまらない思いをしているだろうな、と思うことがある。僕にだってそのことが分かるのだから、演奏家にはもっと明らかなことであるはずだ。ところが、上品そうな音楽のジャーナリストが、「容姿も端麗で、、、」なんて、下品な評を書くんだよね。顔ばっかり見てないで、音を聞けっていう。そういうことがあって、クラシックCDだけはジャケ買いしない。

文学批評も、こういう演奏から学べる点が色々あると思う。批評の対象とする作品を真摯に受け取って、勇気ある切り口で切り込もうとすれば、紋切り型を繰り返すことはなくなると思うんだよね。一番がっかりする紋切り型は、「今まではこういう研究はなされていなかったから、私はこうするのです」というパターン。オリジナリティを確保しようとする身振りにおいて、オリジナリティを失っているという。