泉鏡花 歌行燈

まるで外国の小説を読むかのような言語の抵抗を感じながらの読書。もちろん、同時代の人にとってもすらすらと読めるという代物ではなかったはずだが、しかめっ面しながら読むというものでもないはずだ。漢字の使い方が単に伝統文化の教養の深さを示しているだけでなく、文学的に独創的であると思う。言文一致運動は漢字を記号化してしまったのだけど、ここには確かに漢字のしなやかさが息づいている。単に美しいとかということではない。こういうのを読むと、現代文学の見かけの自由さがいかにさまざまな抑圧にとらわれたものでしかないかが分かるような気がする。中高生のときから僕の読書は外国文学がずっと中心だったんだけど、時折、日本文学がなんといっても一番すごいんじゃないか(ま、「一番」などという表現がそもそも粗雑なわけだが)と、思わせられることがあって、それは主にレトリックのダイナミズムによるものだ。源氏物語とか、古今集とかを読んでも、独特な表現の豊かさに戦慄を覚えずにはいられない。が、それは翻訳によってあっさりと失われてしまう。2005年にかなり、日本の伝統演劇の脚本を読んだのだけど、そのときに感じた英語の読みやすさには驚いた。ほとんどつるつるに鑢をかけられてしまっている。それで、欧米における三島の人気の高さとかも分かるような気がした。三島にはプロットもカタルシスもあり、そこに大きなものが賭けられているので、翻訳によって失われるものが相対的に少ない。それに対してレトリックに生命が賭けられている泉鏡花のような作家の場合、翻訳は致命的なのだと思う。

 ひとつの文学だけを集中して研究することがどうしても出来ないのは、そこにおいて文学のさまざまな可能性が尽くされていない、と思ってしまうからなのだ。



(以下引用)
「あい、」
 とわずかに身を起すと、紫の襟を噛(か)むように――ふっくりしたのが、あわれに窶(やつ)れた――頤(おとがい)深く、恥かしそうに、内懐(うちぶところ)を覗(のぞ)いたが、膚身(はだみ)に着けたと思わるる、……胸やや白き衣紋(えもん)を透かして、濃い紫の細い包、袱紗(ふくさ)の縮緬(ちりめん)が飜然(ひらり)と飜(かえ)ると、燭台に照って、颯(さっ)と輝く、銀の地の、ああ、白魚(しらうお)の指に重そうな、一本の舞扇。
 晃然(きらり)とあるのを押頂くよう、前髪を掛けて、扇をその、玉簪(ぎょくさん)のごとく額に当てたを、そのまま折目高にきりきりと、月の出汐(でしお)の波の影、静(しずか)に照々(てらてら)と開くとともに、顔を隠して、反らした指のみ、両方親骨にちらりと白い。
 また川口の汐加減(しおかげん)、隣の広間の人動揺(ひとどよ)めきが颯と退(ひ)く。
 と見れば皎然(こうぜん)たる銀の地に、黄金の雲を散らして、紺青(こんじょう)の月、ただ一輪を描いたる、扇の影に声澄みて、
「――その時あま人申様(もうすよう)、もしこのたまを取得たらば、この御子(みこ)を世継の御位(みくらい)になしたまえと申(もうし)しかば、子細(しさい)あらじと領承したもう、さて我子ゆえに捨ん命、露ほども惜(おし)からじと、千尋(ちひろ)のなわを腰につけ、もしこの玉をとり得たらば、このなわを動かすべし、その時人々ちからをそえ――」
 と調子が緊(しま)って、
「……ひきあげたまえと約束し、一(ひとつ)の利剣を抜持って、」
 と扇をきりりと袖を直す、と手練(てだれ)ぞ見ゆる、自(おのず)から、衣紋の位に年長(た)けて、瞳を定めたその顔(かんばせ)。硝子(がらす)戸越に月さして、霜の川浪照添(てりそ)う俤(おもかげ)。膝立据(たてす)えた畳にも、燭台(しょくだい)の花颯と流るる。