Falling Man、その他

冬休みに入ってから、なんだかとりとめのない生活をしているので、だいぶ間が空いてしまった。
唯一読み通した本が、DeLilloのFalling Man.
 9.11を題材にした本だけど、問題になっているのは、出来事そのものというより、文化翻訳の可能性とか、出来事とその後の時間。単にトラウマ小説ということはできない。21世紀に入ってからのデリーロは、現象学的な細部へのこだわりが多いのだけど、出来事の物質性を表現しようとしているに違いない。題名の示唆するとおり、「(高所から)落ちる」という体験不可能な体験をめぐって、小説が組織されている。
 デリーロは面白い小説家ではない。しかし、常に重要なことを書く作家で、登場人物がコーヒーを飲んでいるだけでも、読むほうが緊張してしまう。それは、コーヒーを飲んでいる人物が銃で撃たれるかもしれない、とかいった類の緊張ではなくて、その人物がコーヒーをただ飲んでいるというその行動の中にも何かが表現されているに違いない、とこちらが感じてしまうからだ。センテンスはたいてい短く、時に、無機的な感じで反復される。この反復は結構面白くって、繰り返すことで表象し得ないものに触れる感じがある。悪く言うとセクシーじゃないわけだけど。しかしまあ、平均的な人間が考えることなど実はそのようなものではないか、という気がする。ことに、なにかこちらの想定を超えるような事件に接したときには、誰も谷崎潤一郎のような豊かな言語でものを考えたりすることは出来ない。デリーロの書くように、"I'm falling down"のような考えとさえもいえない、しかし鋭い意識が頭に響き渡るだけだ。デリーロの小説は、われわれの感性が外部からの刺激の総体で成り立っているということを体現しているので、ニュートラルでつるつるした文体もそのためなのだ。つまり、われわれがニュートラルでつるつるしているのだから致し方ない。
 というのは、やや、ネガティブなものの見方かもしれない。ここに書いたようなことは散々言われているし、まあ、ポストモダンというのはそういうものだ。しかし、90年代以降の小説は単に資本主義にしたがって経済化した人間とかそういうのを書いているわけではないので、Affectが問題となる。それで、主題としての宗教の回帰というのがとても気になる。DeLilloはMao2以降、常に宗教の力を描いている。この点は、日本の作家もそう。大江の『宙返り』とか、笙野頼子なんかはいつもそうだし、村上春樹も実はそうで、アトスとか、やみくろとか、オウムとか、彼の関心のなかに、常に宗教的な情熱と小説家の情熱の近接性の問題がある。これは、オースターとかデリーロも主題化している問題だし、最近のアメリカの批評家の中にも、ホロコースト芸術を美的に鑑賞してしまうことの倫理的問題に踏み込んでいる人がいる(というか、僕の先生の一人なわけだけど)。
 Modern Primitivismという言葉があるけれど、Postmodern Primitivismという一見矛盾した現象はじっくり検討されないといけないと思う。思うに、前者がポストコロニアルな問題に深く関わっているとすれば、後者にとって最大の問題はメディアだ。メディアの原始性、身体性。というと、StieglerとかWeberとかDreyfusとか、あるいはポストヒューマニズム系の学者とかの仕事が想起されるけど、Postmodern Primitivismという視点はそれともちょっと違う気がする。ここから先は、ここで書いているくらいではちょっと手に負えない問題だ。