ゲルマン魂

 ウルフリンとかリーグルとか、これまで名前を知りながら読んでこなかった人たちの著作をめくってみると、いやはや半端じゃない。20世紀初頭のドイツのアカデミズムの水準の高さというのは異常である。また論証の手続きが真面目というか正攻法というか、どんな仮説を立てても力技で論証してしまう。大学生の時にカントを読んで、そのあまりの直球ぶりに驚嘆したものだが(なにしろ、日本の以心伝心的、あるいは情緒的論証に慣れていたものだから)、まさにその感じが20世紀の初頭の理論的著作には生きているのだ。チャラチャラした感じがゼロである。ワーグナーとかマーラーを聞きながら、理性というのは突き詰めるとロマンティシズムとも通じる一途さがあるのでは、などと思う。そして理性を突き詰めると狂気に裏返るような感じも確かにする。彼らの書物には「全体をとらえる」ということに対するすさまじい執念が感じられるのだ。
 しかし、それはまた、見方を変えればアカデミシャンらしい謙虚さというものではないか。探求するべき目標をしっかりと定め、それに向けて力強く一歩づつ歩んでいく。その結果、誰も読みもしないような難解さを備えた書物が出来上がったとしても、内容さえ充実していればきっと誰かがいずれ読んでくれるはずである。あるいは、そのようにして書かれた書物は、それ自体がひとつの文化として屹立する。
 『存在と時間』もまたそういう書物だと思う。信じられないことにアメリカでは、ハイデガーのナチへのコミットを理由として1970年代までまともにこの本が論じられることはなかったのだ。僕の習った年配の先生の一人も、ハイデガーに会う機会がありながら、彼への嫌悪感からそれを逃したと語っていた。しかし80年代以降では、ハイデガーアメリカで最も読まれている思想家である。日本では全然事情が違ってハイデガーは戦前から読まれていたし、訳も早かった。