「セブンティーン」

性的人間 (新潮文庫)

性的人間 (新潮文庫)

「セブンティーン」

大江にしては珍しい短く畳み掛けるような文章が、17歳の主人公の精神状態と共鳴し、大江の作品群のなかでも最大風速を作っているような直線的作品。オーガズムのように一気に頂点に達する。学校で勉強も運動も出来ずに劣等感に悩まされている「左翼」少年が、クラスメイトに誘われて右翼の演説のさくらをしたところ、そこに自分の居場所を見出す。

「おれはしだいにめざめながら眠りのようなものの中へ沈み込んでいった、おれの耳は大都会の轟音を個々の声、個々の音というよりもその大群を聴いていた。おれの疲れた体を夏の夜のあたたかく重い海のように轟音は現実から切り離し浮かび上がらせてくれた。おれは背後のヒマ人どもを忘れ、新東宝を忘れ、日雇労働者たちを忘れ、叫びたてる逆木原国彦を忘れていた、そして大都会の砂漠の一粒の砂のように卑小な力つきた自分を、いままでに一度も感じた事のないやすらぎにみちた優しさで許していた。そして逆におれはこの現実世界にたいしてだけ、他人どもにたいしてだけ、敵意と憎悪を配給していたのだ。いつも自分を咎めだてし弱点をつき刺し自己嫌悪で泥まみれになり自分のように憎むべき者はいないと考える自分のなかの批評家が突然おれの心にいなくなっていたのだ。おれは傷口をなめずっていたわるように全身傷だらけの自分を甘やかしていた、おれは仔犬だた、そして盲目的に優しい親犬でもあった、、、」


また、右翼の演説がすごい勢いである。

「『おれは誓っていいが、あいつらを殺してやる、虐殺してやる、女房娘を強姦してやる、息子を豚に喰わせてやる、それが正義なのだ!それがおれの義務なのだ!おれはみな殺しの神意を背に負って生まれたのだ!あいつらを地獄に落とすぞ!』」

「女房娘を強姦」までは結構常套句だが、「息子を豚に喰わせる」というところの想像力の豊かさが演説に勢いをつけている。主人公はこの後「皇道派」になる。

主人公が右翼に変わる瞬間の状態を自分の中の批評家の消失として表現しているように、天皇崇拝は他者のimaginaryな同一化と考えることが出来る、(って当たり前だけど)。ジジェクOn Beliefで述べているように、信仰は主体の条件であって、主体があって信仰が始まることなどありえないのだから、信仰の内容は常に後からやってくる。そしてそれが先に来ていたもののように幻想されるところに根本的な倒錯がある。