ゾラ賛

 
 ゾラという作家はかなり不幸な読まれ方をしているのではないか、と常々思っている。フランス文学をやっている人でもゾラを読まずに馬鹿にする人は結構いるので、そういう人にとって大概フロベールは神様だったりする。僕にとって『居酒屋』は本当に重要な本で、それにまつわる記憶は非常に濃く残っている。たとえば、大学生協のどの棚のどの辺りから新潮文庫版のこの本を手に取ったかいまだに覚えているし、買ったすぐ後に何気なく読み始めたら最初の章でとりこになって、そのなかほどの150ページほどをその日の授業の後、大学図書館に残って読んだことも覚えている。もちろん、小説の中身の細かい場面についてもかなり覚えていて、たとえば冒頭の洗濯場の場面における蒸気とか、それに続くルーブル美術館の場面における大衆の描かれ方とか、あとランチエが屋根から落っこちて怪我するところとか、ジェルビューズの表情の生き生きした描写とか、それはもう素晴らしくて、小説ってすごいなあ、と思った。まだ大学に入ったばかりの頃で、その頃はまだ色々な「名作」を読んでいなかったから、それだけショックが大きかったのかも知れず、ことによると今読めば多少は醒めてしまうのかも知れないけれども、『居酒屋』は小説のパッションが詰まっているように感じる。
 4、5年前にゾラセレクションが藤原書店から出て、それなりに再評価されているのかもしれないけど、なんか小説を通じて19世紀後半から世紀転換期にかけての都市風俗を論じましょう、といった研究者の都合がちょっと感じられたような気がして、そこがやや興ざめだった。もちろん「セレクション」の出版自体はゾラを原書で読み通す体力のない僕にとっては歓迎すべきことだったけど。
 しかし僕にとってゾラの偉大さとはダーウィニズムの衝撃、つまり人間と動物の境目の揺らぎをもっとも生々しく描いた点にあるので、この点でドゥルーズが「獣人」について書いているのを知ったときには、さすがドゥルーズと言う気がしたし、ああ、なるほどアメリカ文学の好きなフランス文学読みに読まれるのがゾラなんだな、とも思った。
 もちろん、ゾラは多作家だったから、駄作はいくつもあるけど、なんというか、現実に触れ合うことへの欲望の強さが描写の筆力を高めているような様子に圧倒される。ゾラは一見すると方法論的に新しくなくて、分析するとつまらないかもしれないが、一気に読めば必ず何か異様な強さを感じさせてくれる作家だと思う。少なくとも『居酒屋』は。