ゲイ・レズビアン研究を読むとき、きまって考えること

 多くの人が自分をゲイであるかゲイでないのかという明確な線で区切ることに躊躇がない、ということは僕を戸惑わせる。あらゆる欲望は−狂気がそうであるように−、潜在的に全ての人のうちに内在している、といわなければならない。それがいかなることであっても、ある特定の立場から語ることは結局虚構に過ぎない、と思う。アクティビストたちはそのことにある程度自覚的なのではないかと思ったが、そうでもないようなのだ。もちろん、我々は構築された言語のうちにしか生きていないし、運動とはその規定的な生に対する対抗としてなされてはじめて意味があるというのは分かる。しかし、ある規定的な言説に単に対抗的な言説を述べることは、言説の発生する場そのものを揺さぶるような効果を発生させない。早い話が、消費されてしまう。
 ジェンダーが社会的に作られたものであるならば、性とは、おそらくあらゆる方向性に開かれた潜在性ではないか。もちろん、そのような潜在性はあらかじめそれとして認知されることはなく、遡及的に推測されるものだ。だが、その潜在性とのあいだに時間的に形成され、あるいは壊されていくものに触発されるところに、不確かさとしての生がある。まあ、バトラーも結局そういったことを言っているわけだけど、バトラーが消費される場はかなり悲惨なものなのだ。「動物になること」について語ったドゥルーズのように、「なること」のもたらす創造性にもっと自分を開かなくてはいけない。