群像6月号

 図書館から群像6月号を借りて読んだら、新人賞受賞作の「アサッテの人」がやたらに面白い。ナンセンスな言葉の響きが現実を支える言葉の意味の体系を解体し相対化してしまう、という作用に過剰に敏感だった叔父の人生を綴っているのだが、語り手の方にもそれが伝染し、叙述するということの中立性というものが不明になってしまうという過程そのものを記録した小説。語り手と語られる対象との相互的な影響関係が非常に意識的に記述されているが、語り手は結局の所、何が叔父にナンセンスな言語を叫ばせるように突き動かしていたか知ることが出来ないし、なぜ叔父が失踪したのかという、普通の小説であれば最大の焦点となるであるようなところに少しも肉薄できず、ただただ叔父の捕らわれていたナンセンスな言語だけが小説の構造を突き抜けて勝利する。もちろん、ナンセンスな言語に意味づけを行ってはならないのだから、これはこれで語り手の戦略なのだ。叔父の失踪は、ナンセンスな言語が通常の意味理解の枠組みから逃れてしまうこととパラレルなのかもしれない。バーセルミの「バルーン」に、コンラッドの「闇の奥」的な語りの複層性を合わせたような所がある。
 新人賞だから枚数の制限があるのだろうけど、これは、もっと長くてしかるべき作品だ。たとえば、叔父の失踪について語り手はもっとしつこく考えたほうがいいと思う。叔父の新婚旅行はエストニアラトビアリトアニアであり、彼がこの韻の踏まれ方に惹かれたのは明らかである。翌年にはウクライナに結婚一周年記念として出かけているし、この彼の東欧への執着にはなにかある、という感じがするのだけど、すくなくとも僕の読んだ感じでは、これが彼の失踪と結び付けられていない。もちろん、彼の失踪の理由がはっきりと明らかになる必要はないけれど、たとえば彼の意味不明の言葉の一つ「チリパッパ」がロシア語では亀を意味するとかいうような記号的な結びつきというのは彼の人生をめぐっていくつも見つかるはずだし、語り手はもう少しそこに執着してもいいのではないか。
 しかし、そう書いてから、最後のページに書かれている図が、そのヒントになっているかもしれない、という気がしてきた。つまり、叔父は、訳の分からない、部屋の一周を踊りながら周るという儀式を繰り返しているうちに姿を消してしまったという、含みはあるのだろうか?もし、そうだとしたら、部屋に置かれた朋子さんの遺品の三面鏡に大きな関係があるのだろう。朋子さんは交通事故で死んだのだが、叔父はこの三面鏡の中に彼女の存在を見出している。
 分からない。なにかそれ以上は進めない感じだ。