揺れる

最近、自分がますますアメリカでの生活に根付いてきているのを感じる。日本での大学教員のひどい労働状況を聞くにつけ、戻っていくのが怖くなる。かといって、苛烈なアメリカの就職戦線を勝ち抜けるような気もしない。アメリカでの就職はたんに業績の量だけではなく、プレゼンテーション力とか社会性みたいのも非常に重視されていて、自分にはそういう能力にかけては、日本ではいざ知らず、アメリカでは、数段人より劣っていると感じる。しかし、ここに残れば、ちゃんと研究できると思う。資料はいつだって簡単に手に入るし。日本に帰ってしまうと、色々な習慣とか義務とかに押しつぶされてしまうのではないか。もともと空気が読めない性格だったのだけど、この3年ほど日本社会から遠ざかったせいで、ますます空気が読めなくなっていると思う。しかし、空気を読むということに傾注する努力ほど空しいものはない。なんかそういうことをしているうちに疲れ果て、年を取っていってしまうのだ。だから断固として空気は読みたくない。それは人に迷惑をかけないということとは全然別の話だ。別に名誉が欲しいとかはないんだけど、いい論文を書いていたいと思う。文学や文化や哲学について何かを書くということだけが、自分の取り柄なのだから。それに、もっともっとフランス語やドイツ語を鍛えたい。紀要とか誰も読まないものに書きたくないのに書いたりとかそんなことをしていたら、もともと脆弱な自分の能力が磨り減ってなくなっていってしまうのではないか、と思う。村上春樹的に言えば、傾向的に消費されてしまう(だっけ)。アメリカには紀要なんてない。何でそんなものが日本にはあるんだろうか。大学院生だからこそこんな好き勝手なことがいえるのだろう、たぶん。ハスミ大先生ですら、紀要に書いていたのだ。しかし、公正なレフェリーのもとに広く投稿を募る雑誌だけが生き延びればいいと思う。それですら、世界で読まれるということはほとんどない。はあ、こんなことは日本ではナイーブな感想に響くに違いない。

そう考えると、博士号をとるまでのここ2,3年が勝負なのだ。
がんばる。