見出された時

 プルーストの『見出された時』。一応、最後まで到達する。一応、というのは第3巻あたりで、話の流れを見失ってしまったようなところがいくつかあるから。やはり、サロンの描写が多い巻ほどついていくのがつらい。その点、『見出された時』は、内省的で比較的読みやすい。フランス語もわりに易しい。
 さまざまな終わりが積み重なるようにして、書物が閉じられる。<時>についての考えが個人的な記憶とより合わされて展開する。無意思的記憶をどのように記述することが可能かという問題にはリアリズム的描写に対する不信感が出てくる。文学がもしゴンクール兄弟の書くようなものであれば、そもそも一生を賭す価値があるだろうか、とか。しかし、語り手はどうしても不可避的に自己の幼年時代に戻っていくので、『フランソワ・ル・シャンピ』をめぐる幸福な記憶が何度も喚起される。文学が幸福であった時代と、ベルエポックの無邪気さと、幼年時代における母や祖父母といった女たちとのつながりのすべてが、区別できない形で現れ、一方で不可逆な時の流れの残酷さが、たとえばサロンの一変した雰囲気であるとか、人々の顔に刻まれた皺であるとか、あるいはシャルリュスの変わり果てた姿とかで表現される。