先生とわたし

 四方田犬彦の本。ようやく読む。こうやっていつも流行に周回遅れになってしまうわけだけど、なかなか海外から新刊を取り寄せるのは、大変。この本は、数年前に帰ったときに話題になっていて、知り合いの先生があれは恩知らずの本だとか怒っていたのだけど、読了してみて、この本に対して怒るということがありえるという事実にむしろ身の毛のよだつような日本のアカデミズムの閉塞性を感じた。肝は、突然、「わたし」に加えられた先生の拳なわけだが、別にそれに対して恨みがましいようなことが書かれているわけではない。四方田も終始、敬意をこめて先生のことを描いているし。
 しかし、そんなことよりも、なんといっても文学が輝いていたころが描かれていてそれが印象的だった。まだ、新しいものが始まるという感覚が、70年代には確実にあったわけだ。僕自身は、文学を無前提にありがたがるという感覚はないけど。
 

論文はようやく書き始める。
 

ピアソラ

センチメンタルかつスタイリッシュというのが、ピアソラ。もう、この曲は本当に思い出深い。涙なしには聴けない一曲。
http://jp.youtube.com/watch?v=LRdOHfizYG8&NR=1
早いパッセージでもたついたりとか、音がびびったりするところがあるけど、全体のとらえ方が素晴らしい。曲の上を流れている空気をきちんと呼吸できているというべきか、とにかく、緩急の使い方、強弱がいい。ギターとタンゴに明るい人の演奏。

ぷろれたりあ

佐川光晴「われらの時代」と津村記久子の芥川受賞作を読む。おお、ほんとに時代はプロレタリアだよ。蟹工船が売れるわけだ。読みながら体に棘がささってくるような感じがした。僕も論文かけないとか、贅沢なこと言っている場合じゃない。しかし、蟹工船があれほど売れるなら、文芸誌も売れてよさそうだけど。純文学も、こぎれいでサロン的な書店でイベントを開くだけでなく、それこそ工場に行って朗読会を開いて一冊500円で売るとか、運動すべきなのでは。少なくとも、作品は、仕事で息が詰まって希望を見出せないでいるような人にこそ、読まれることを欲している。大学の先生や批評家にではなく。そうか、でも経営者がそれを許さないよなあ。 

現代文学の貧困

 もちろん、それは神話なのだけれど、プルーストや、あるいはしばらく前の泉鏡花を読んだ経験を振り返ってみれば、文体的な豊穣さというようなものは、この1世紀近くの時間の中で取り返しようもなく損なわれてしまったのではないか、と思わざるを得ない。我々は、ますます、誰もが書き得、誰もが読みうるような中性的なものしか書かなくなっている。それを日本語の乱れのせいだという人がいるのだが、私が考えるに事態はまるで逆で、情報には言語がそれ自体に備わっているはずの変容する能力を抑圧するようなところがあるのだ。伝達の速さは、言語を衰弱させる。とすれば、やはりデリダの遅延と差異をめぐる問題にいたるわけだ。

見出された時

 プルーストの『見出された時』。一応、最後まで到達する。一応、というのは第3巻あたりで、話の流れを見失ってしまったようなところがいくつかあるから。やはり、サロンの描写が多い巻ほどついていくのがつらい。その点、『見出された時』は、内省的で比較的読みやすい。フランス語もわりに易しい。
 さまざまな終わりが積み重なるようにして、書物が閉じられる。<時>についての考えが個人的な記憶とより合わされて展開する。無意思的記憶をどのように記述することが可能かという問題にはリアリズム的描写に対する不信感が出てくる。文学がもしゴンクール兄弟の書くようなものであれば、そもそも一生を賭す価値があるだろうか、とか。しかし、語り手はどうしても不可避的に自己の幼年時代に戻っていくので、『フランソワ・ル・シャンピ』をめぐる幸福な記憶が何度も喚起される。文学が幸福であった時代と、ベルエポックの無邪気さと、幼年時代における母や祖父母といった女たちとのつながりのすべてが、区別できない形で現れ、一方で不可逆な時の流れの残酷さが、たとえばサロンの一変した雰囲気であるとか、人々の顔に刻まれた皺であるとか、あるいはシャルリュスの変わり果てた姿とかで表現される。

新学期

ABDになって初めての学期。もちろん自由なのはうれしいのだけど、なんとなく不安感がある。ということで、まったくクラスを取らないよりは取ったほうが精神衛生上いいと思って、Virginia Woolfだけを一学期の間読み続けるコースを取ることに。もちろん博士論文とは関係ないのだけど、関係ないことをやるというのがいいわけです。Jacob's Room, Mrs. Dalloway, Mrs. Dalloway's Party, To the Lighthouse, A Room of One's Own, Three Guineas, The Waves, Between the Acts, とRoger Fryの伝記、および二次文献という感じで、分量的にはアメリカの大学のコースとしてはかなり少ない。講師はポスドクの一年目の人で、たぶん年は僕とそんなに変わらない感じ。しかし、それほど優秀という感じでもなく、同じ時間に行われているはずの有名教授によるセミナーに参加すべきであったかと、ちょっと悩む。あまり得るところがなければ、やめることにしようと思う。しかし、ともかくウルフをまとめて読むいい機会。

自分の教えるクラスはかなり学生がいい感じで、これから一学期間楽しみ。教室狭いのだけど、逆にアットホームでいいかも。

ドイツ語読解・中級はやめることに。自分の教えるクラスの直前にあるのが痛い。夕方にやってくれれば出るのだけど。自分で文法をさらうことにしよう。フランス語は必要な文献を意識して原語で読むように心がけたい。フランス語会話のクラスも取るのをやめる。ま、そのうち機会があるでしょう。

ベンヤミンは、ミリアム・ハンセンに圧倒されまくったので、ちょっとその消化に時間をかけているところ。しかし、方向性は見えてきたので、この週末に取り掛かりたい。

ベンヤミン

ベンヤミンコレクション1−4
去年帰ったときに、なんとなく予感がして持ってきたのがよかった。重宝している。
英語圏では、Harvard Editionが出始めたのが、つい10年位前で、それから一気にベンヤミン・ブームになった。


去年出たSamuel WeberのBenjamin's -Abilitiesは、読み応えのある一冊で、
結局ドイツ語がちゃんと読めないとベンヤミンの理解など生半可なものにしかならないということを
教えてくれる。ベンヤミンを一貫してメディアムについて思考した思想家と見なす立場。
それから、古い二次文献も結構あさっていたのだけど、Peter Szondiの二つの論文が秀逸だった。
この人は知らなかったのだけど、ハンガリー出身でベルリン大で教えた比較文学の教授だったらしい。