滑走教師

 毎週のように学生から遊びに誘われていたので、今日ばかりはちょっと顔を出すことに。アイススケート。前に転んで左手をいためたことがあったし、先生が転ぶと恥ずかしいので(それでも一回転んだけど)、地味目に滑ってみた。大学の施設で家から10分ほどのところにある。思ったとおりというか、たいていの学生のほうがうまく、なんか気を使わせてしまった。しかし、ここの学生は感動的に性格がよく、行っただけですごい喜んでもらった。本当は、学生と友達のように付き合ってはだめと、昔ディレクターの先生に言われたんだけど、まあこのくらいなら。一緒に酒飲んだわけでもないし。1時間くらいすべったら足が痛くなってきたので退散。みんなも勉強しなきゃとか言いながら帰っていった。それにしてもなんと健康的かつ牧歌的なことだろう。自分が大学生のときなんて先生を遊びに連れ出そうなどと思いもよらなかった。それどころか周りと同じように呼び捨てだったし。しかし、本来自分はとても牧歌的な人間なのだと思う。中高生のとき、自分の周りにそういったものがないからこそ、ヘッセとかマンとかツルゲーネフとかの青春小説を読んだのだ。だからそのような読書は逃避の手段だったし、その読書経験は徹底して個人的なものだった。ところで、ヘッセとかマンとかツルゲーネフとかの青春小説は、高校生までには読みたいものである。大学生になって文学部なぞに入ってから読むのでは、遅いのだ。やはり小説の主人公の年齢が自分の年齢に一致することでしか得られないような読書体験というのがあるので、いまヘッセを読んだらやっぱりちょっと恥ずかしい気がするだろう。しかし、今の高校生のどれくらいがヘッセとかマンとかツルゲーネフとかの青春小説に出会えるというのだろうか。こういうのは高校の先生の役割というのは大きいと思う。僕は高校の先生がその名を口にした小説はすぐ読んだしね。中学高校の現代国語というのは本当につまらないので、あんな変な問題解かせたりして学生を退屈させるくらいなら、文学の授業でもすればいいのに。



で、結論。今日の経験は実にツルゲーネフ的であったと思う。



ベンヤミン論、調子が出てきたけど、これ大きく出すぎているか心配。

ゲルマン魂

 ウルフリンとかリーグルとか、これまで名前を知りながら読んでこなかった人たちの著作をめくってみると、いやはや半端じゃない。20世紀初頭のドイツのアカデミズムの水準の高さというのは異常である。また論証の手続きが真面目というか正攻法というか、どんな仮説を立てても力技で論証してしまう。大学生の時にカントを読んで、そのあまりの直球ぶりに驚嘆したものだが(なにしろ、日本の以心伝心的、あるいは情緒的論証に慣れていたものだから)、まさにその感じが20世紀の初頭の理論的著作には生きているのだ。チャラチャラした感じがゼロである。ワーグナーとかマーラーを聞きながら、理性というのは突き詰めるとロマンティシズムとも通じる一途さがあるのでは、などと思う。そして理性を突き詰めると狂気に裏返るような感じも確かにする。彼らの書物には「全体をとらえる」ということに対するすさまじい執念が感じられるのだ。
 しかし、それはまた、見方を変えればアカデミシャンらしい謙虚さというものではないか。探求するべき目標をしっかりと定め、それに向けて力強く一歩づつ歩んでいく。その結果、誰も読みもしないような難解さを備えた書物が出来上がったとしても、内容さえ充実していればきっと誰かがいずれ読んでくれるはずである。あるいは、そのようにして書かれた書物は、それ自体がひとつの文化として屹立する。
 『存在と時間』もまたそういう書物だと思う。信じられないことにアメリカでは、ハイデガーのナチへのコミットを理由として1970年代までまともにこの本が論じられることはなかったのだ。僕の習った年配の先生の一人も、ハイデガーに会う機会がありながら、彼への嫌悪感からそれを逃したと語っていた。しかし80年代以降では、ハイデガーアメリカで最も読まれている思想家である。日本では全然事情が違ってハイデガーは戦前から読まれていたし、訳も早かった。

このごろ

どうも、メリハリのない生活が続いていてまずいと思う。コースワークも、もうやらなくていいというのも嬉しいけども、友達に会って刺激を受けることも少なくなり、エンジンがかかりづらい。
この一ヶ月は本当に生産性が低かった。ベンヤミン論のほうも、一箇所とんでもない誤読をしていて、
というかどう見てもベンヤミンの議論の流れがうねりまくっているのが問題なのだけど、どうも整理がつかない感じになってしまって、イントロのところで早々と座礁。本当に遅筆で、こんなんじゃ何年かかることやら。日本で非常勤をやりながらという手もあるけど、学問のことを考えたら踏ん張るべき。ゆっくり着実にやればいいだけなんだけど、気だけあせるというか。それで、気散じのために日本の現代小説読んでみて、結構面白かったり、それに対して批評家の足りなさっぷりが歯がゆかったりとか、ま、そんな日々。そんなこんなしているうちに、語学力は下がってしまうから、時間を決めて語学をやるとかするかな。

暖かく

たぶん、全米の北のほうはそうだと思うけど、今日は暖かくなった。
冬がきついだけに、暖かくなることの喜びもその分大きくなる。
雪解けの水が道路の端にたまっていた。家の近くの小川も水量を増していた。
小林エリカの「ぼくのアンネ」。最初、漫画のコマ割りみたいな発想で
書く人だと思って、著者紹介を見たら本当に漫画家らしい。とってもポップ。
漫画的なセンチメンタルさもあって、それが好き嫌いの分かれるところだと思う。
漫画ばかり読んでいると小説が読めなくなるとか言うけど、
これは漫画をたくさん読んでいないと書けない小説だと思った。
一文一段落が非常に多く、クリシェが多用されているのだけど、
その辺は実にうまくコントロールされている。
作為的な感じがするのは確かで、もう、そのひらひらするスカート
とか見えちゃったとか、いやそれが学園的な風景なのは分かるけど
もういいから、などと突っ込みながらの読書となる。

しかし、一番好きだったのはそういう学園的なところじゃなく、
母子家庭の「母」の描き方の筆加減。
たまに出てくるだけなのだが、人生に対するあきらめと希望の入り混じった感じが
よい。それに対して、男になってしまいたいという中学生の長女の願望に
表れた欠如感が重ね合わせられる。長女は何度か、箸を噛むのだけど、
その方向性を失った力の入り方の感じもまたいい。

この長女、学校での唯一の友達が、野見(ノミ)君という男子と
だけ仲がいいのだけど、このようなペアはかなり既視感があって、
そう、蹴りたい背中のあのペアにとてもよく似ているのだ。しかし、
考えてみればこの作家はちっともオリジナリティを狙っていず、
むしろ既視感だけで小説の舞台を埋め尽くそうとしているのだから、
どっかで見たことあるというのを指摘してもしょうがないかもしれない。

でも、書いているうちに、やっぱり70年代後半生まれ世代の集合的な
記憶に対する目配せが多すぎるかなあ、と思った。


あと、谷崎由依の「ガルラレーシブへ」。
面白いのだけど、あやふやな点があやふやなままに終わっているところが多い。
マジック・リアリズム系の女性作家、増えているなあ。

酷寒の大地

どこか遠くの国のことではなく、ここのこと。
たぶん、ここまできついのは今週で最後だと思うけど、もう勘弁。
いま、現在もー18度。朝、いっつもバスに乗っていくんだけど、
10分くらい待つと、そのまま凍って銅像になりそうだ。

最近、机に向かって入るんだけど、無為に過ごしてしまう時間が多く反省。
Age of distractionsと誰かが言っていたけど、まさにそんな感じ。
しかし、今日質問に来た学生はすばらしい学習意欲で、
見習わなければと思った。自分で単語帳を作っていつも持ち歩いているのだ。
しかも6冊も。夜はイタリア語の授業を取っているらしい。
学生から学ぶことが出来るというのが教師の特権だと思う。

ここのところ数年に一度将棋ブームが自分の中で起きるのだけど、
またその波が来た感じで、かわりにチェスの興味がさめていった。
やっぱり将棋のほうが深い、と思ってしまうのは、自分が
単に日本人だからではないような気がするのですけど、
どうだろう。プロの将棋で魅力的なのは、やはり駒の使い方の
幅の広さのようなもので、自分のようなアマチュアがいかに
自分で勝手に築き上げた先入観によって目を曇らされているか
ということに気付かされる。羽生さん、かっこいいです。